昭和44年11月22日 朝の御理解 ★
御理解第72節
「人間を軽うみな、軽う見たらおかげはなし」
人間尊重と、いわゆる、( ? )、人間尊重、人間を軽う見な、軽う見たらおかげはなしと、とは私は意味は少し違うように思いますね、人間尊重と、ね、人間を軽う見なとは少し違う。
人間を尊び、または、( ? )見ると、言ったような事は、まあ、実際はできていないように思うですね私は。
例えば、それぞれに、人間に、位がつくと、人間は年を取るほど位がつくと仰る、位の高い者が、いうなら、位の低い者に、を尊重すると言う事は、軽うなんてんと言う事は出来ますけれども、尊重すると言う事は、どうやら、やっぱ違うように思うんですね、ね、主人が、例えば、使用人の人を尊重すると、というと、使用人でも軽う見ないということ、違うように思うんです。実際問題として、尊重すると言ったような事ははたしてできるだろうかと、返って滑稽やないかと思うんですね。
尊重すると、例えば、使用人が、あなたこなたと言うて、( ? )ふうに言うたら、使用人が今度は主人に対して言いようが無い、呼び方一つでも、ね、使用人が主人を尊重すると言う事は、いえますし、またできますけれども、主人側が使用人を尊重すると言う事、教祖様は人を軽う見なと、軽う、ね、軽蔑するという、ね、軽蔑するということだと思うんですね、軽く見るという事は、だから、例えばその、使用人は使用人として、思い、または扱い、それでいいと思うんです、ただし、軽う見てはならないと言う事、または、と言うことは、軽蔑してはならないと言う事、あれはあれ、どこにある、飯使いだからと、何々しても良いといったような、ね、軽蔑とは、軽蔑してはならんということ。ね。
例えば、人間、尊重すると言う事は、例えば、一つのことを頼むでも、頼みにくなるですね、尊重ばっかりしよったら、ね、いわゆる、ここん所が大変難しい、結果、結論を先に言うと、どういうことかと言うと、慢心をするなということだと思うんです、慢心するから、俺は金持ちだ、俺は主人だと、あるいわ使ってるんだと、例えば、いうことになりますとね、もうこれらが、そのまま慢心になっておる、ね、だから、自分の心に慢心と言うものを見極めさせて頂きながら、人を見るということ。
人を軽蔑すると、いうようなことは無くなるだろうと思うんですね、自分の心から慢心を取り除いたら。人間を尊重すると言う事は、人の人間を神様のように扱うと、そういうことは出来ませんですね、実際問題としては。ね、尊重、尊重するのではなくて、軽う見らないだけだと、軽い見らないということは、軽蔑をした身か方をしないということ、それは、自分達の心の中に、え~、慢心が出けていないということを、ね、いわゆる、自分をいつも謙虚な所においておくことだろう、ね、ですから、そこには、軽蔑もないし、同時に、尊重もないと、ただ、いわゆる、神の氏子として、または人間として見るということ、ね、それこそ、人間尊重といったようなものもそげんなん意味じゃないかと思うけれども、その人間尊重という、その字からね、尊ぶ思うというような事は、実際は必要じゃないと、と言うような風に私は思うんです、時々は尊ばねばならんとか、重く( ? )はない、だから、重くも見らない、軽くも見らない、ね、ただ神の氏子として、人間として見る、そういう見方、そういう見方が出来るということは自分自身が慢心していないと言う事。
ところが、軽蔑する、相手を軽蔑するということは、これは絶対自分が慢心しておる時である、これは慎まなければならん、これは、私はおかげを頂いとるなら、必ず取り落とす、または、おかげはそれでは頂けない。
人を軽蔑する、それは自分が慢心しておるから軽蔑するである。そのへんの所が、本当に何事も信心になれよと仰る、信心になっていないと、( ? )ですね。
今日、ご神前で、★ コップですね、ならすコップに、水が両方にいっぱい入っておる所を頂いた。
水といいや、お恵みと仰るからお恵みがいっぱい頂いておるという。どういうだろうかと申しておったら、一つのコップをこう、何か別に移してしまって、殻になった所へ今度は反対にそれにお神酒をいっぱいこうさして下さる所を頂いた、私はそん時、ははぁーこういうことだなと思った事はですね、神様が人間氏子の上に、信心は、いわゆる、せんでもおかげはやってやると仰るですね、信心はせんでもおかげはやってやるという、仰るおかげは、この、いわゆる、お恵みの水はいっぱい頂いておるという事だと思うんですね、これは信心あってもなかっても、お水をいっぱい頂いておるよなものです。
なら、信心させていただくなら、まあ、とりわけ信者氏子というような呼び方をされる、ね、信者氏子というものはどうあったらよいかと、どうあらねばならんかと、いうとですね、二つのコップの、一つの方にはお水がいっぱい入っておらなければならないということ、ね、いわゆる、有り難き、勿体無き、恐れ多き、これは信心しなければ頂けないものなんだ、ははぁー、こう言う風に表現し、信心はせんでもおかげはやってやる、なるほど、お水がいっぱい恵まれておると言う事、信心はあってもなかっても、けれども、なら、信心させて頂く者は、なら信者氏子はどうあらなければならないかと言うと、ね、なるほど、お恵みはいっぱいだけれども、一つの方にはお三喜の方がいっぱい入っておる、有り難き、勿体無き、恐れ多きのお三喜が入っておる。そこで、お互い信心させていただく者がです、果たして、片一歩の方にはコップに、ね、自分の心の中にです、信心のないものでも頂いておるおかげを満喫しておる、それを、信心のないものは気がついてないだけの事、ね、天地の親神様の御恩恵によらなければ生きることすら、息をすることすらできない、ね、今見えておるとか、( ? )、手足が動いておるとか、いや、目が見えなくても、手は動かなくてもです、お生かしのおかげを頂いておると言う事はです、これは、信心のない者でもないでも同じだけれども、信心の無い者はそれを気付き感じてはいないと言うこと。
信心させて頂く事によって、初めておかげを頂いて、生かされて生きておると言う事が分かって、その事に対して、まずはお水に対して有り難い、勿体無きという神恩報謝の心が、その上に、例えば、信心させて頂く者はお取次ぎを頂いて、ね、おかげを受けていくから勿体無い、いよいよ、勿体無いという風になる。ね。
ですから、信心させて頂く者は、その、頂いておるそのお水そのものにも感謝の心が湧いてくるということと、分かるということと同時にですね、ね、これは信心をしておらなければ頂けない、いわゆる、おかげ、いわゆる、お酒のほうが片一歩の方にいっぱい入っておる、果たしてお互いの信心させて頂いておる者がですたい、そこんところに有り難いをかじれるおかげを受けておるかどうかと、ね。
昨日、特別奉修委員の時に、御祈念の後に頂いた御理解なんですけれども、以前、根賀以という新聞がここら出ておりましたですね、あの根賀以というのは、賀びを以って根とすると書いてある、だから、信心とは賀びを以って根とするんだと、そこまでは分かっておった、とこが、その賀びを以って根とすると書いてねがいと読ませてもろうた所に気がついてなかった、ね、賀びを以って根とすると書いてねがいという、読ませてある、平仮名で必ず書いてある、ねがいと、ね、ねがいと言うことは、いわゆる、頼むということでしょう、ね、ですから、これは、金光様の御信心は願いの信心とすら、その、極言する方があるぐらいですから、願わなければ親神様は喜んでくださらない、願うことを以って、かえって喜んでくださる、氏子が願っておかげを受ける事こそ、神様の喜びなのである、けれども、その願いと言うものはです、ただ、願い、願い、ではいけない、( ? )、その、願う心が喜びでなかなければならないということ、本当に思うて見ればあれもおかげ、これもおかげ、本当におかげを頂いて勿体無いほどしのおかげを受けておっても、やはり願わなければならないことはいっぱいだと言う事、だから、その、あれもおかげ、これもおかげと、分からせて頂く、その中にです、いっぱいのお水の中に、有り難いと言うものが分からなければならない。信心があってもなかっても受けておるというおかげの、その事も有り難いと分かっておらなければならない、ね、同時に信心をさせて頂いて、頂く所の特別のおかげとでも申しましょうか、ね、そういう信心者でなかなければ頂けないおかげを頂いて、そこに有り難いと言う心、喜びがある。ね、その喜びを以って根とするのだ、その喜びをもって、その喜びの心を以って、次の、例えば、願わなければならないことがたくさんある、その願わなければならないことを願っていく、だから、喜びが根本にならなければならない。ね。
信心があってなかってもおかげはやってやるというおかげ、それが、二つのコップに水がいっぱい入っておるようなもの、私共がどういう時に信心になるかと言うと、その一つのコップがです、ね、もう、空になるほどしにです、恵から離れたのではなかろうかというように、ね、死ぬか生きるかの病気をしたり、ね、途端に貧乏の苦しみをしたり、途端な人間関係の苦しみというものがあったり、まあ難儀という、すべての難儀を時、とりわけ、感ずる時ですね、そういうお恵みがへった時なんだ、いうならば。ね、今そこに悩みを持っておると言う事はです、その、一つのコップの水がもうこぼれておるようなもんだ、だから、そういう時が一番有り難き、勿体無きを頂けるときなんだという事。両方のお水にいっぱいのお水がある、信心はなくてもおかげは頂いておるという時には、いかにその上に御神酒を注いでも、中は水ですから、ね、大した事はないです、けれども、そのお恵みの水から離れる時、いうならば、不幸せなとき人間が、ね、お金で難儀をしたり、病気で苦しんだり、人間関係で悩んだり、様々悩みが多い時です、お恵みが少ない時、そういう時にお互いが神様とこう言うことになる、新人と言うことになる、そこから、幸い、いわば、お恵みの水がこぼれてない時であるから、それに有り難い、勿体無きをいっぱい注ぐことが出来る。ね、してみると、その難儀な時はそういうお水ではない、御神酒、信心しなければ頂けない物をいただけれる絶好の機会を頂いておるときなのですけれども、果たしてなら、信心させて頂いておるが、有り難き、勿体無きが片一歩のコップに注がれておるかと言うこと。
ここを私、本気で考えさせられましたね、今朝、その事を頂いて。信心はなくてもやってある、コップに、二つのコップに水がいっぱい入っておる、そういっぱい入っておっても、それを神様のおかげとも気がついていない、それは信心がない間である、ね、ところが、信心を頂くようになるそのきっかけが様々な難儀とか、悩みの時である、そのコップの水が少しへったり、ね、それが無くなった時にです、神様と言うことになる、それから、おかげを受ける、信心の有り難さが分かる、神様の心が分かる、分かるからそこに有り難き、勿体無き、恐れいきと言う心が、今までの水にとって変わっていっぱいになる、片一歩の水にはお水がいっぱい、片一歩の水にはお酒、お神酒がいっぱい、その二つが自分達の心の中に頂き、頂いていけれる、信心はなくてもおかげはやってやると言うおかげもおかげと気付かせてもろうて、お水の有り難さをお水の有り難さとして有り難く頂いて、片一歩の有り難き、勿体無き、恐れ多きの御神酒の有り難さというものの心の中にいっぱい頂いていくという生活。そのへんからですね、私は、人間の、言うならば、う~ん。今日、私は人間を軽う見なと、軽う見たらおかげはなしという、これは、人間を尊重すると言う事ではないと、ね、ただ、人間を人間、神の氏子として見る、重くみるとか、軽く見るということじゃないと、ね、軽蔑しないということ、軽蔑はいけない、もし軽蔑してみるならば、それは貴方が慢心しておる時だと、ね、言う事を申し上げて、今、私が御心眼に今朝から頂いたことを聞いて頂いたですけれどもです、ね、そこで例えば同じ人間であっても、なら心の内容というものが水だけではなくて、水とお神酒とこう頂いておるという人、ね、そういう人達を、どういうことになるかというと、お徳を受けていく人達だと思う、ね、これは軽う見るといったようなものではなくて、これは、私は尊重されると、神様からも尊重される、人間からも尊重される、だから、人間のすべてを尊重するということではないと、けど、それは軽う見ないというだけのことではないと、軽蔑してはならないということだと、けれども、心の中にお神酒を半分頂いておる人、有り難き、勿体無きを称えとる人、これは、神様も尊重してくださるが、人間も尊重すると言う事、ね、お徳を受けてまいりますと、その人を例えば、神様のように言うたり、見たりするということは尊重しとるとでしょう、だから、そこにです、区別であるということはこれはもう仕方ない、当たり前なんだ、ね、お徳を受けとる人と、お徳を持たない人とを一往に扱えと言う事じゃないということを、今日、私が言おうとしておる訳ですね。
人間は、やはり神の氏子と、いわゆる、一子同人である、それを、例えば軽蔑して見るということは、おかげはなしと、もうそれははっきりとここで断言してある、おかげはなしである、ね、それはあんたの心が慢心であるからです、慢心ておるから人を軽蔑するんです。自分がよかのこと思うとるから人を軽蔑する訳で、ね、そういうことを私共は、自分でいつもそういうことになっていないかと言うことをです、ね、思うて見らなければならない。もし人を軽蔑するような心が、もしあるとするならば、今、自分は慢心しておる時として、思うて、大いに自分の慢心を、ね、どこが、自分が慢心が出来るようなものを、をもっておるかと思うて見ならなければならない、改まらなければいけない、そこで、人間は、もう一往、尊重もしなければ、軽蔑もしない、当たり前に見るというのである、ね、こうなってまいりますと、う~ん、その、人間、人間を尊重、人間を尊重ちいうたら、言う風な事を( ? )思いよるとが、自分の使用人でもなんでも、ほ~ら、あなた、あなた、こなたちいいわなんごたる感じがしますもんね、だから、何々君でも、それから何々( ? )という訳なんです、それは決して敬氏ではない、軽蔑ではない、ね、主人として、ね、そこのへんのところの兼ね合いが大変難しい、ケイシュしたり軽蔑したりして、おいこらなんというんとじゃない、それは使用人だから言うのである、自分の年下の者だからいうのである、自分より身分の低いのもんだからいうのである、人間として、けれども( ? )しない、ね、例えば、今申します、ね、御神徳を受けていく人達をです、おいくらて言うたり、( ? )いえないでしょう、ね、だから、徳を受けてない人に、なら、徳の受けたのようなふうには( ? )、まあ、それはいわんでもよい、思わんでもよいということなんである、ね、だから、その、人間すべてを尊重と言う事ではない、勿論、尊重と言う事はです、これは特別尊重しなければ、それは自ずとね、例えば、お徳を受けて行くと神様が大事にあつこうて下さるようになり、人が大事に尊重してくれるようになるだけのことであって、ね、今日は、そこん所を分かって頂きたい、それは当然今日頂いた御心眼から頂いてですたい、私共がどうしても信心をさせて頂くものはです、ね、信者氏子といわれるほどしに、私共は信心のない人達から尊重されるだけの内容をもたなければいけないと、そして、これは信心をせにゃか馬鹿らしかというようにです、信心のない人達が思うて下さるほどしにお徳を受けていかにゃいけない、それは、どういうことかと言うと、私共のもう一つのコップにです、ね、有り難き、勿体無き、恐れ多きがいっぱい注がれる、とおるおかげを受けなければならない、有り難き、勿体無き、恐れ多きをいっぱい頂くというのは、普通から言うと不幸せ、普通から言うと難儀のように見える、そういうときこそ、お恵の水が、いよいよ、減っておる時、なくなっておる時であるから、今、その時こそ、この有り難き、勿体無きをいっぱい頂いとかにゃならんということ、ね、その難儀をしながら、有り難き、勿体無きの、入ってないというなら、やはり、信心する者がおかしく見える、信心のない者は二つのコップに水がいっぱい入っておるのに、信心がない者は( ? )いつでも空、なら信心をしよってどうしてあげん難儀が続くじゃろうかといったようなことになる訳なん、ね、けれども、信心をさせて頂くおかげで、片一歩のコップが空じゃったけれども、それに御神酒がいっぱい注がれるところからです、ね、いわゆる、有り難き、勿体無きの生活が出来る、その有り難い、勿体無いと言うその心、その喜びの心で願っていく、だから、もういよいよその願いは大きくなっていくだけである、その有り難き、勿体無きが尊重されるものであって、人間そのものを尊重するのではない、ね、そのお徳そのものが尊重されるのである。これは信心を頂かなければ頂けないということ、けれども信心を頂いておっても、それを頂かなかったら信心を頂いておる値打ちがないということ、ね、有り難き、勿体無きが片一歩のコップにはいっぱい、ハァー本当にあ~して難儀、苦労しござったけれども、ね、信心しようんなさったらあのようなおかげを受けられたという、いろんな意味でですよ、ね、おかげを受けて、人からも尊重され、神様からの尊重される私達になる。
今日は、人を軽う見なということに、の解釈をね、例えば、人間尊重というようなものではないと、人を軽う見ないということは、ね、人を、なら尊重せんならんということじゃないと、ね、当たり前に見るだと、人間は人間として見るんだと、その、いわゆる、内容がです、ね、軽視したり、軽蔑したりする見方は軽く見ることになるから、慎まなければならない、慎まねばならないというよりも、自分の心に慢心があるから人を軽蔑して見るのだと、これは、大いに自分の心の中に、それを確かめて、はぁー自分が慢心しておると言うことをです、改めていかなければならない、と言うことを申しましたですね、軽う見なという所、だから、軽う見るでも泣かなければ、重う見るでもないということを今日申しました、同時に今度は、ね、信心をさせて頂いて、有り難き、勿体無きが募って行く、その有り難き、勿体無きがお徳になっていく、そこから、神様からも尊重され、人間からも自ずと尊重されれるおかげを頂けれる、いうなら、道にあるのがお道の信心を頂いておる者であると言う事、その道にあってもです、なら人から尊重されない、神様からも尊重されないとするならばです、これは大いに反省しなければいけないということ、金光様の御信心をしたら、もう誰からでもだから尊重されねばならねば、私は神様に対しても相すまんと、いうことになるじゃないです、ね。
信心によって、私共が有り難き、勿体無き、恐れ多きと言う生活に入らせてもらう、そういう生活にならせてもらうと言う事をです、神様は尊重してくださり、人もそれを尊重する事になる、そういうことを今日は聞いて頂きましたですね。
信心はしておっても、まだまだ有り難き、勿体無きが足らん、お願いなんかも願いの信心だから願いよるけれども、ただ苦し紛れの願いじゃいかん、喜びを土台として、その喜びを以って、喜びの心で願っていくと言う信心にならにゃいかん、ね、その喜びがです、私共のもう一つのコップにそのお酒の方が、お神酒の方がはいっとらんと、あれもおかげ、これもおかげと気がつかんのである、ね、ここんところを一つ分からせて頂きたいと思うんですね。
どうぞ。
末永静行
2005年6月12日